中国人の売れっ子ピアニストといえば、まずはラン・ランそしてユジャ・ワンの名前があがる。彼らはクラシック音楽の演奏家ではあるが、その超人的なテクニックとルックスやファッションによりスターダムにのし上がった。通常のアーティストとは違う扱いをされて、広く一般人にも知られるようになった。芸術家というよりはスターという言い方がぴったりくる。そこには「中国人にベートーヴェンやバッハの音楽の真髄が理解できるはずがない」という欧米人のステレオタイプが見え隠れもするが、いずれにせよクラシック音楽の世界で新興国である中国あるいはアジアの若いピアニストを売り出すには効果的なマーケティングだといえるだろう。ユジャ・ワンについてはその大胆なファッションばかりが話題にされる傾向にあり、私は何となく彼女を敬遠してきたのだが、今回東京で演奏してくれるというので独奏会に行ってきた。(2016年9月7日、於サントリー大ホール)
プログラムは当日に変更になり、シューマンのクライスレリアーナOp. 16とベートーヴェンのハンマークラヴィーアソナタOp. 106の二曲となった。これは北京生まれの若い女性ピアニストにとってはこの上ない挑戦だと言ってよいだろう。なぜならこの二曲にドイツ音楽の伝統がいわば究極的な形で凝縮されているからだ。ハンマークラヴィーアソナタは32曲あるベートーヴェンのピアノソナタの中で最大かつ最も謎めいた作品であり、古典派音楽の一つの到達点を示したような作品だ。この曲にいかに壮大な仕掛けが隠されているかはチャールズ・ローゼンが名著「クラシカル・スタイル」の中で明らかにしているが、一つ一つの要素が細部まで計算されつくした形で積み上げられて大伽藍のような壮大な作品に仕上がっている。一方クライスレリアーナはアンチ・ベートーヴェンを追究したかのような作品だ。ベートーヴェン的な起承転結あるいは弁証法を拒否し、その瞬間に生まれる感興をそのまま音に綴ったかのような作品である。全八曲はどれも突然始まり突然終わるかのような曲想を持ち、全体を統合する意図を明確に否定しているが、一方で通して演奏されることでのみ、作曲者の意図が伝わる、という仕掛けとなっている。この二曲は全く対照的なアプローチを必要とするため、両方で十全な演奏するのは困難である。例えばR. ゼルキンのハンマークラヴィーアは天下一品だが、真面目一徹な彼がクライスレリアーナを自在に弾く姿を想像するのは難しい。一方ロマン的な感性と音の魅力で聴かせるホロヴィッツはクライスレリアーナの人である。彼はハンマークラヴィーアを「退屈」と切り捨てた。
ユジャ・ワンのテクニックは本当にすごい。もちろん今時の若手のピアニストは例外なく高度なテクニックの持ち主であるわけだが、その中でも彼女は頭抜けている。打鍵の強さ正確さ速さは言うまでもなく、弱音のコントロール、ポリフォニックな処理といった質の面でも圧倒的に上手い。そして心に沁みる歌心も自在なリズム感も持ち合わせている。まさにピアノの申し子のような才女である。どんな困難なパッセージも楽々演奏してしまう彼女の演奏は、若い時のアルゲリッチを彷彿させる。いや、どんな曲も自由自在に弾けてしまう、という点ではユジャ・ワンはアルゲリッチをも凌駕するかもしれない。ただしアルゲリッチはどんな音楽を演奏しても、彼女にしかできない演奏スタイルそして彼女にしかない音を表出しており、それにより時代を画する存在となった。ユジャ・ワンについては、とんでもなく上手にピアノを弾くことはわかったから、あとはどういう個性的魅力を見せてくれるのか、それを示してくれ。そういうことであろう。
素材がダイアモンドであることは明らかなので、あとはクラシックの名曲をどう料理してくれるのか、ということだ。中国→米国といういわばクラシック音楽の周縁をベースにしてきた女性がドイツのクラシック音楽の最高峰とも言える大曲二曲にどう挑むか、これが聴きものであった。まずシューマンのクライスレリアーナ。この曲はさすがに若い彼女には少々荷が重かったように思う。もちろん細部まで十分考えられた好演だったが、逆に練られたスタイルが予定調和を感じさせてしまい、シューマンの世界を表現するには切り込みが弱くなってしまった。例えば第二曲のゆったりとした主部。ここでカギを握っているのは八分音符の伴奏の精妙な動きである。これにより「ドレミソラソミド・・・」といういわばとりとめもないような旋律に息が吹き込まれるのだが、ユジャワンの演奏からはこの八分音符のこだわりが感じられず、単に素通りしてしまったようだったのが残念だった。クライスレリアーナは音楽による詩集である。詩の中で言葉の一音一音が大変な重さをもっているのと同様に、短い音やフレーズの一つ一つに神が宿っている。それを十全に表現しきらないとシューマンの天才的インスピレーションが表現されずに終わってしまう。
ハンマークラヴィーアはベートーヴェンにつきまとう深刻な世界観をぶった切ったような快演だった。第一楽章の冒頭から快適なスピードに乗った演奏が心地よい。この楽章は実は弾き手にとっては困難な箇所の連続なのだが、ユジャ・ワンはそんな素振りは少しもみせず、完璧なテクニックで軽快に音楽を進めていく。長大な第3楽章も深刻ぶることなく、いわば健康的で美しい表現に終始した。昔は「ベートーヴェンの後期のピアノソナタというのは非常に深い世界なので、若いピアニストは演奏を試みてもいけない」などと言われていたが、昔日の感がある。ケンプやゼルキンのLPを聴いて育った私の世代の人間にとっては、ベートーヴェンがこんな風に演奏される日がくるというのは一種のショックでもあった。そのくらい魅力があったと思う。しかし、そうであるとしても、やはり表現がもう少し徹底しているとさらに良かったとは思う。そもそも長大なこの曲を彼女は何のために弾いているのか、そこにはどういう思想があるのか、何を表現しているのか・・・その辺をもっとガツンと主張するべきではないか。それによってユジャワンがスターから真の芸術家へ脱皮できるのではないか、などと感じた。そういうものをベートーヴェンのスコアは要求しているのだから。(まあ世の中の大半の演奏がそういう問題を持っているのだが、ユジャ・ワンにはぜひその壁を乗り越えてほしいと思うので敢えて指摘しておく。)
そして本プログラムの後はお楽しみのアンコール・タイム。お決まりのトルコ行進曲や、ビゼー=ホロヴィッツのカルメンなどを一人でiPadで上手に譜めくりをしながら演奏していた。あたかもドイツ音楽の重い束縛を解こうとするかのようにユジャ・ワンがはじけた。恐ろしく複雑で超絶技巧のスコアを前にしても全く崩れることがなく、彼女のテクニックがいかに余裕の塊であるかを見せつけた格好だ。以下がその演奏曲目だが、前半のクライスレリアーナの後にもカプースチンの変奏曲とショパンのバラード第1番を弾く、というサービスぶりだった。
シューベルト(リスト編):糸をつむぐグレートヒェン
プロコフィエフ:トッカータ(ピアノ・ソナタ第7番より第3楽章)
ビゼー(ホロヴィッツ編):カルメンの主題による変奏曲
モーツァルト(ヴォロドス/サイ編):トルコ行進曲
カプースチン:トッカティーナ op.40
ラフマニノフ:悲歌 op.3-1
グルック(ズガンバーティ編):メロディ
(2016年9月8日記)
プログラムは当日に変更になり、シューマンのクライスレリアーナOp. 16とベートーヴェンのハンマークラヴィーアソナタOp. 106の二曲となった。これは北京生まれの若い女性ピアニストにとってはこの上ない挑戦だと言ってよいだろう。なぜならこの二曲にドイツ音楽の伝統がいわば究極的な形で凝縮されているからだ。ハンマークラヴィーアソナタは32曲あるベートーヴェンのピアノソナタの中で最大かつ最も謎めいた作品であり、古典派音楽の一つの到達点を示したような作品だ。この曲にいかに壮大な仕掛けが隠されているかはチャールズ・ローゼンが名著「クラシカル・スタイル」の中で明らかにしているが、一つ一つの要素が細部まで計算されつくした形で積み上げられて大伽藍のような壮大な作品に仕上がっている。一方クライスレリアーナはアンチ・ベートーヴェンを追究したかのような作品だ。ベートーヴェン的な起承転結あるいは弁証法を拒否し、その瞬間に生まれる感興をそのまま音に綴ったかのような作品である。全八曲はどれも突然始まり突然終わるかのような曲想を持ち、全体を統合する意図を明確に否定しているが、一方で通して演奏されることでのみ、作曲者の意図が伝わる、という仕掛けとなっている。この二曲は全く対照的なアプローチを必要とするため、両方で十全な演奏するのは困難である。例えばR. ゼルキンのハンマークラヴィーアは天下一品だが、真面目一徹な彼がクライスレリアーナを自在に弾く姿を想像するのは難しい。一方ロマン的な感性と音の魅力で聴かせるホロヴィッツはクライスレリアーナの人である。彼はハンマークラヴィーアを「退屈」と切り捨てた。
ユジャ・ワンのテクニックは本当にすごい。もちろん今時の若手のピアニストは例外なく高度なテクニックの持ち主であるわけだが、その中でも彼女は頭抜けている。打鍵の強さ正確さ速さは言うまでもなく、弱音のコントロール、ポリフォニックな処理といった質の面でも圧倒的に上手い。そして心に沁みる歌心も自在なリズム感も持ち合わせている。まさにピアノの申し子のような才女である。どんな困難なパッセージも楽々演奏してしまう彼女の演奏は、若い時のアルゲリッチを彷彿させる。いや、どんな曲も自由自在に弾けてしまう、という点ではユジャ・ワンはアルゲリッチをも凌駕するかもしれない。ただしアルゲリッチはどんな音楽を演奏しても、彼女にしかできない演奏スタイルそして彼女にしかない音を表出しており、それにより時代を画する存在となった。ユジャ・ワンについては、とんでもなく上手にピアノを弾くことはわかったから、あとはどういう個性的魅力を見せてくれるのか、それを示してくれ。そういうことであろう。
素材がダイアモンドであることは明らかなので、あとはクラシックの名曲をどう料理してくれるのか、ということだ。中国→米国といういわばクラシック音楽の周縁をベースにしてきた女性がドイツのクラシック音楽の最高峰とも言える大曲二曲にどう挑むか、これが聴きものであった。まずシューマンのクライスレリアーナ。この曲はさすがに若い彼女には少々荷が重かったように思う。もちろん細部まで十分考えられた好演だったが、逆に練られたスタイルが予定調和を感じさせてしまい、シューマンの世界を表現するには切り込みが弱くなってしまった。例えば第二曲のゆったりとした主部。ここでカギを握っているのは八分音符の伴奏の精妙な動きである。これにより「ドレミソラソミド・・・」といういわばとりとめもないような旋律に息が吹き込まれるのだが、ユジャワンの演奏からはこの八分音符のこだわりが感じられず、単に素通りしてしまったようだったのが残念だった。クライスレリアーナは音楽による詩集である。詩の中で言葉の一音一音が大変な重さをもっているのと同様に、短い音やフレーズの一つ一つに神が宿っている。それを十全に表現しきらないとシューマンの天才的インスピレーションが表現されずに終わってしまう。
ハンマークラヴィーアはベートーヴェンにつきまとう深刻な世界観をぶった切ったような快演だった。第一楽章の冒頭から快適なスピードに乗った演奏が心地よい。この楽章は実は弾き手にとっては困難な箇所の連続なのだが、ユジャ・ワンはそんな素振りは少しもみせず、完璧なテクニックで軽快に音楽を進めていく。長大な第3楽章も深刻ぶることなく、いわば健康的で美しい表現に終始した。昔は「ベートーヴェンの後期のピアノソナタというのは非常に深い世界なので、若いピアニストは演奏を試みてもいけない」などと言われていたが、昔日の感がある。ケンプやゼルキンのLPを聴いて育った私の世代の人間にとっては、ベートーヴェンがこんな風に演奏される日がくるというのは一種のショックでもあった。そのくらい魅力があったと思う。しかし、そうであるとしても、やはり表現がもう少し徹底しているとさらに良かったとは思う。そもそも長大なこの曲を彼女は何のために弾いているのか、そこにはどういう思想があるのか、何を表現しているのか・・・その辺をもっとガツンと主張するべきではないか。それによってユジャワンがスターから真の芸術家へ脱皮できるのではないか、などと感じた。そういうものをベートーヴェンのスコアは要求しているのだから。(まあ世の中の大半の演奏がそういう問題を持っているのだが、ユジャ・ワンにはぜひその壁を乗り越えてほしいと思うので敢えて指摘しておく。)
そして本プログラムの後はお楽しみのアンコール・タイム。お決まりのトルコ行進曲や、ビゼー=ホロヴィッツのカルメンなどを一人でiPadで上手に譜めくりをしながら演奏していた。あたかもドイツ音楽の重い束縛を解こうとするかのようにユジャ・ワンがはじけた。恐ろしく複雑で超絶技巧のスコアを前にしても全く崩れることがなく、彼女のテクニックがいかに余裕の塊であるかを見せつけた格好だ。以下がその演奏曲目だが、前半のクライスレリアーナの後にもカプースチンの変奏曲とショパンのバラード第1番を弾く、というサービスぶりだった。
シューベルト(リスト編):糸をつむぐグレートヒェン
プロコフィエフ:トッカータ(ピアノ・ソナタ第7番より第3楽章)
ビゼー(ホロヴィッツ編):カルメンの主題による変奏曲
モーツァルト(ヴォロドス/サイ編):トルコ行進曲
カプースチン:トッカティーナ op.40
ラフマニノフ:悲歌 op.3-1
グルック(ズガンバーティ編):メロディ
(2016年9月8日記)