都響の戦争レクイエムを聴きにいってきました。今年はベンジャミン・ブリテンの生誕百年。ブリテンといえば、同性愛者で徴兵忌避で戦争中にアメリカに渡り・・・と若干つかみにくいキャラですが、第二次大戦の空襲で破壊されたカテドラル再建に際し、この戦争レクイエムを作曲したわけです。この曲は二十世紀のクラシック音楽の曲として最も有名な曲の一つと言って良いでしょう。「わかりやす過ぎる」と言われたり、ストラヴィンスキーが「反動的」と批判したりしていますが、そういった批判はむしろこの曲が如何に多くの人の心を動かしたかを示しているとも言えますね。ブリテンという人間にいくら批判があろうとも、最後のクライマックスですべての声と楽器が鳴り、その後にドゥアで静かに曲が終わると、誰でも深い感動を覚えることになります。作曲当時の1960年代初めは核戦争の危機が高まり、ベルリンの壁が出来・・・という時代でした。初演のバリトンにフィッシャー=ディスカウ(ベルリン出身)を、ソプラノにヴィシュネフスカヤ(ソ連)を指名したのもそのためでしょう。今回、指揮者の大野和士は日韓中のソリストを選ぶことで、平和への願いを込めたものと思われます。総勢三百人が非常に良くまとまって音楽を聴かせてくれました。テノールのオリバー・クック(韓国)は美声でリハーサルでは非常に良かったらしいが、本番では少し硬かったかも。それから、作曲者の意図としてはオーウェンの英詩の歌をはさむことで英国の聴衆に歌詞が理解されるように作られたのだと思いますが、英語の発音はアジア人にとって難しいので、聞くだけでは苦しかったです・・・。以上、なんだかまとまりませんが、幸せな気分で帰途につけました。
週末になるとシンフォニー・サロンでは色んな音楽活動が繰り広げられます。「どういうお客さんが多いですか?」などときかれることがありますが、本当に千差万別ですし、私が全てを把握しているわけでもないので、何とも答えようがありません。皆様、本当にありがとうございます!
日曜日は夕方にピアニストKさんらがピアノトリオの練習に来られました。ちょうど加藤正人さんに調律をしていただいた翌日、というベストタイミングです。KさんによるとシンフォニーのNYスタインウェイBは「低音の重みが特に優れている」とのことでした。近々ベートーヴェンの大公トリオを演奏されるとのことで、昨日は第一回目の練習。その後に三人の奏者プラス私で、ちょっとした「大公談義」が繰り広げられました。 Kさんは室内楽を良くやられますが、大公をちゃんと弾くのは意外にも今回が初めてだとのことでした。「どうもしっくりこないところがある」こう言われます。実は私も正直言って大公の良さが今一つわからない面があります。第一楽章をスケール感だけで押そうとするとあまりにも単純になってしまいそうに感じるし、最終楽章のあの軽い感じが曲の締めくくりにふさわしいのか、特にあの第三楽章に比べてどうなのか・・・等々を考えます。 その時の会話をちょっと抜粋しておきます。 「大公という名前は、単に大公に曲を捧げたために呼ばれているだけでしょ?」 「そう。もし農民に捧げたら「農民」と呼ばれるようになったかも」 「だから「大公」という言葉のもつイメージにとらわれ過ぎるのは間違いということだね。」 「今まであの曲がどうも良く理解できなかったけど、エドウィン・フィッシャーらの録音を聴いて疑問が氷解した。例えば終楽章は普通よりもっとじっくりと丁寧に演奏することで説得力が生まれる」 「確かに、多くの演奏家はあの終楽章を必要以上にリズミカルに派手目に弾いて曲を盛り上げて終わろうとしているように思う。」 幸いなことにエドウィン・フィッシャーの録音はユーチューブで公開されています。私も遅ればせながら聴いてみました。大公の録音というとピアノとヴァイオリンとチェロの三人の大家が「我こそは」とがっぷり四つに組んだ演奏スタイルがすぐに浮かびますが、この演奏は違います。力強いというよりも滋味深い。 エドウィン・フィッシャーというと反射的に「バッハの平均律」と思ってしまいますが、もう一度色々聴いてみないと。 PS そういえば、大公といえば村上春樹ですね。大公をYoutubeでチェックすると、コメント欄にMurakamiの名前がたくさん踊っています。クラシック音楽に対しての彼の貢献はすごいものがありますね。 有森博さんのラフマニノフ前奏曲24曲の演奏会に行ってきました(東京文化会館小)。24曲を一気に、というのは凡庸な演奏では飽きてしまう恐れがあるところですが、有森さんの演奏は、音楽が今生まれてくるような新鮮な感性を感じさせるもので、一曲一曲のマイクロな世界が結びついて大きな世界が創出されるさまを心行くまで味わいました。
そこで今日はラフマニノフの前奏曲集についてちょっと書いてみようと思います。 世の中には数多くの「前奏曲集」がありますが、その本家本元ともいえるショパンの前奏曲集は調性等の条件から、まとめて演奏するのが本来の姿だと広く認識されています。一方で、ドビュッシーの前奏曲集についてはショパンほどの「一体感」は感じられません。各曲に独立性が高く、タイトルも与えられているくらいですから。でも一方で、それぞれの曲がピアノの独自の技法や楽想を追求しているので、それをまとめて演奏することで、ドビュッシーの音楽観が顕わになるという面もある。なのでこの場合は個別に弾くことも、第一巻・第二巻とそれぞれまとめて演奏することも、どちらも多いです。 では、ラフマニノフの前奏曲集はどうでしょう?これについては全曲を通すことはあまりありません。(CDではまとめて録音されることが多いですが)。全体をまとめて演奏することで何か大きなメッセージを発信しているとは考え難いから、という理由がそこにはあると思われます。どうせラフマニノフばかりではないかと。 しかし、昨日、有森さんの演奏で全曲を通して聴いて、私は24曲を通して聴く深い充実感を味わうことができました。Op.3-2「鐘」の冒頭A-G♯-C♯が全体の導入の役割を担っていて、そのあとはラフマニノフの独自のロマンの世界がいろんな姿に変貌していく姿を堪能できました。考えてみると、前奏曲集の中の何曲かは非常に短かったり曲想の個性をとらえにくかったりして単独に取り上げるには若干都合の悪いのがありますので(特に作品32の何曲か)抜粋だと、Op.23-5のようなホロヴィッツがお得意の華麗な曲ばかりが弾かれる傾向が出てしまいます。それは本当にもったいない。 もう一点感じたことを挙げると、作品32の難解さです。ラフマニノフのピアノ曲というと、ピアノ弾きにとっては、まずは前奏曲があって、その先には「音の絵」そしてさらにピアノソナタ第二番があると考えるのが一般的でしょう。これは作曲された順番にも符合する見方です。しかし実は前奏曲Op.32が最も「難しい」のではないか。これが私の以前からの意見です。この考えは有森さんの演奏を聴いてさらに強くなりました。まだ考えが100%まとまってはいないのですが、Op.32の中にも5番や2番のように比較的曲想をつかみやすい曲もあるものの、多くは作曲者の意図がわかりにくい曲です。中では第1番ハ長調や第6番ヘ短調などは疾風怒濤という感じで、まだわかりやすい面がありますが、第3番ホ長調とか第4番ホ短調のあの入り組んだ感じはは何なのでしょう?どちらもクライマックスがあるものの、それも空虚な感じでさっと終わり、最後は消え入るように曲が閉じる。単に印象を断片的に綴ったのでもなく、かといって何か全体としての構成や方向性が確立しているというわけでもなさそう。それに比べると、そのあとに作曲された「音の絵」のわかりやすさと言ったら・・・。 ともあれ、こんな風に思ったのも、ラフマニノフの前奏曲集を全曲通して演奏する意義を強く感じさせてくれたからです。では、この辺で。 |
Authorシンフォニーのオーナーです。 Archives
September 2022
Categories |