芸術には芸術性とテクニックの二つ面があるとされる。芸術的表現をするためには、その前提としてテクニックが必要となるということだ。もちろん芸術とはそれ全体として価値を持っているわけで、これをそのように分けて評価するのは正しいやり方ではない。芸術性とテクニックをはっきりわけて点数をつけているのは、フィギュアスケートの採点くらいだが、これはフィギュアスケートが第一義的には芸術ではなくスポーツであるためだ。
しかし、我々が演奏を分析する場合にテクニックについて考えることに意味はあるだろう。テクニックとは何か、という問いには百花繚乱の議論が起きている。ピアノ演奏についていえば、指が正確に早く動くというのがその基本で、それが狭義のテクニックと言えよう。加えて、音がきれい、色んな音色が出せる、弱音がコントロールされているというのもある。もう少し高度な話になると、音のバランスが良い、とかポリフォニー(多声部)の処理が上手、というのもある。さらに話を広げれば、暗譜が正確である、とか、譜読みが早い、といった事も広義のテクニックに入れても良いかもしれない。
昨日シフの演奏会を聴いたが(2017年3月23日@新宿オペラシティ)、彼の演奏から真っ先に思ったのは、(広義の)テクニックが圧倒的に素晴らしいこと。今の世には超絶技巧のピアニストにあふれているが、シフのすばらしさはその中でも特筆すべきレベルにある。私は90年頃にNYで若きシフのバッハの主題による変奏曲とフーガ (レーガー)を聴いて、その余裕満々のテクニックに感じ入った記憶があるが、今やシフも60歳を超えて、さすがにそういう運動能力には衰えが出ているはずだ。いわゆる打鍵の正確さや強さという点だけ見れば、今の若手トップ・ピアニストの方がおそらくスゴイだろう。彼は今もそういう物理的なテクニックの切れ味と言う点でも非常に高い水準を誇るが、しかし彼の演奏の本質がそこにあるわけではない。
彼が優れているのはテクニックの質である。すべての音が思いのままにコントロールされていて、どんな表現も可能となっている。十本の指が本当の意味で独立していて、あたかも十人の別々のプレーヤーが演奏しているかのようだ。そしてその十本の指がシフの脳からの指令によって、彼の意図が100%反映された表現となる。演奏におよそ過不足というものがなく、常に考え抜かれた表現となっている。誤解を恐れずに言えば「頭が良い」ということだろう。世の中の他のほとんどすべてのピアニストは、彼に比べると、どこか偏りがあったり、バランスが悪かったり、不器用だったりする。では、具体的に演奏はどうだったか。
モーツァルトのピアノソナタK.526。モーツァルトの最後のピアノソナタであり、最も円熟したピアノソナタの一つである。この曲は例えばK.499/533のソナタなどに比べるとポリフォニックな要素が少なく、二声部の動きが基本である。そのためこの曲が(当日シフがアンコールで弾いたハ長調ソナタK.545などと同様に)教育的意図をもって書かれたと言われる。しかし、二声だから難しくない、ということはない。この曲がモーツァルトで技術的に最難関の一曲であることは全てのピアニストが知っているとおりだ。二つの旋律だけのシンプルな音形であるだけに、ただ弾くのでは足りず、十分なニュアンスが要求される。しかも白鍵と黒鍵の配列が指にうまく合わない面があって、一見単なる音階のようでも実は弾きにくいことが多い。ピアニスト泣かせの曲なのである。ここでのシフは唖然とするほど上手い。いやうますぎる。一つ一つの音がシフによってどれだけ十全のニュアンスが与えられているか。驚くばかりだ。第一楽章ではその十六分音符を、その場面によってタッチを微妙にかえつつ表現するが、それに対峙する八分音符や四分音符に隠れている旋律を巧みに聞かせるのがニクイ。第二楽章は今の良く響くピアノではもう少し遅いテンポで思い入れを込めて演奏することが多いが、シフは微妙なタッチを駆使しつつ、端正なたたずまいを持ってクラシカルな表現を貫いた。第三楽章は逆にテンポを速くしすぎず、あくまで十六分音符の三連符の一つ一つの粒立ちが聴こえる表現を守った。古典的な様式感を崩さない、という配慮が見えた。何と巧みな、と感心しながら、しかし、一方で、もっとシンプルで素晴らしい演奏を聴いたことがあるようにも感じていた・・・。
次いでハイドンの最後のソナタ。シフには洒落とユーモアにあふれるハイドンが向いていると感じる。均衡のとれた優美な音楽を奏でるモーツァルトや、全体が大きく見通された構成力を持つベートーヴェンに比べて、ハイドンにはちょっとした場面の転換の妙や、大胆な転調などの魅力が詰まってるが、それがシフの巧みな表現力とマッチする。最もハイドン的なピアニストと言えるかもしれない。
シューベルトの変ロ長調のソナタ。小細工をすべて拒否するような息の長い歌。人の声や弦楽器と異なり一種の抽象性を持った響きを持つピアノだからこそ、この音楽から超越的な表現を引き出すことができるのではないだろうか。この曲はピアニストの一つの試金石ともいえる曲で、例えばリヒテルは異常な集中力を持った演奏をしたが、その極度に遅い演奏がブレンデルの逆鱗に触れた。我々はさらに独特なアファナシエフの演奏も知っている。しかしシフはそういう類の演奏とは対照的で、独自の世界観の提示というよりはニュアンスや美しさによってこの曲に人間的な温かみを与えようとするかのようだった。ウィーンの伝統を志向しているのかもしれない。私は正直言ってこのアプローチに若干物足りなさを感ぜざるを得なかった。例えば第一楽章は中庸を感じさせる音楽から始まるが、その後は至福のひと時から絶望の淵までを含むような、いわばこの世の中を全投影したような音楽である。ディナーミクスについても、消えゆくようなピアニッシモから爆発するようなフォルテッシモまで圧倒的に幅が広い。シフはもちろんこれを百も承知で、これらを丹念に場面場面で表現していった。しかしこのやり方だと、この音楽に内包する「毒」を表現しきれないと感じる。とてつもない大きなシューベルトの音楽に見合う演奏となっているのか、ということだ。痛切な感情表現である第二楽章はもちろん、第三、四楽章も、表面的な平和とは裏腹に深遠なる闇が見え隠れししていて、それをどう表現するかがピアニストにとっての最大の課題ではないか。しかし、私にはシフの演奏からそれを感じることはできなかった。何もシフに異常な演奏をするべきだ、と言っているわけでない。このような究極の音楽を表現するにはありとあらゆる可能性があるのは当然だ。私は80年代にルドルフゼルキンがこの曲を演奏するのを聴いた。彼はシフと対照的に不器用な人で、表現を細かく調整していくというのではなく、自分はこうしか演奏できない、とった風の演奏をした。その真摯な姿は私を確かに惹きつけた。あるいは、表面的には淡々に弾いているだけのように感じるシュナーベルの昔の録音。シフはこういう方向性なのではないかとちょっと思うところもあるが、しかし何気なくさらっと表現しながら聴き手の心をひょいとつかんでしまうシュナーベルとシフには溝があるようにも感じる。
そしてプログラム最後のベートーヴェンソナタ第32番。ベートーヴェンの後期のピアノソナタはどれも異様な高みに立っているわけだが、この曲は中でも究極と呼んでしかるべき音楽である。冒頭の減七の跳躍から人生の苦悩を象徴するような第一楽章、そしてそれがハ長調に移調して、第二楽章の主題と変奏になる。特に三十二分音符の三連符になる第四変奏からは人間の世界を離脱して彼岸に到達する。ここでもシフはすべてが考え抜かれた過不足ない表現を貫いた。終わり近くで右手でトリルを奏しながら主旋律を弾くところなど、そのニュアンスの巧みさに舌を巻いた。問題はそれがこの異常な曲のあるべき表現であるのかどうか、ということだ。
シフは「巧みすぎる」ピアニストだと思う。ピアノ演奏を芸術表現の手段としてこれほどまでに高めたピアニストも他にいないように思える。どんな曲もどんな風にでも自由に表現できる。現代を代表するピアノの巨人であることは間違いない。しかし、とことん均衡のとれた美しく知的な演奏が、私たちが本当に欲するものなのか。特にシューベルトとベートーヴェンの最後のソナタという、いわばピアノ音楽の究極の二曲についてはもっと突き抜けた表現が求められるのではないか。私は満足しつつも一方でどこか割り切れぬ思いを抱きながら帰途についた。
しかし、我々が演奏を分析する場合にテクニックについて考えることに意味はあるだろう。テクニックとは何か、という問いには百花繚乱の議論が起きている。ピアノ演奏についていえば、指が正確に早く動くというのがその基本で、それが狭義のテクニックと言えよう。加えて、音がきれい、色んな音色が出せる、弱音がコントロールされているというのもある。もう少し高度な話になると、音のバランスが良い、とかポリフォニー(多声部)の処理が上手、というのもある。さらに話を広げれば、暗譜が正確である、とか、譜読みが早い、といった事も広義のテクニックに入れても良いかもしれない。
昨日シフの演奏会を聴いたが(2017年3月23日@新宿オペラシティ)、彼の演奏から真っ先に思ったのは、(広義の)テクニックが圧倒的に素晴らしいこと。今の世には超絶技巧のピアニストにあふれているが、シフのすばらしさはその中でも特筆すべきレベルにある。私は90年頃にNYで若きシフのバッハの主題による変奏曲とフーガ (レーガー)を聴いて、その余裕満々のテクニックに感じ入った記憶があるが、今やシフも60歳を超えて、さすがにそういう運動能力には衰えが出ているはずだ。いわゆる打鍵の正確さや強さという点だけ見れば、今の若手トップ・ピアニストの方がおそらくスゴイだろう。彼は今もそういう物理的なテクニックの切れ味と言う点でも非常に高い水準を誇るが、しかし彼の演奏の本質がそこにあるわけではない。
彼が優れているのはテクニックの質である。すべての音が思いのままにコントロールされていて、どんな表現も可能となっている。十本の指が本当の意味で独立していて、あたかも十人の別々のプレーヤーが演奏しているかのようだ。そしてその十本の指がシフの脳からの指令によって、彼の意図が100%反映された表現となる。演奏におよそ過不足というものがなく、常に考え抜かれた表現となっている。誤解を恐れずに言えば「頭が良い」ということだろう。世の中の他のほとんどすべてのピアニストは、彼に比べると、どこか偏りがあったり、バランスが悪かったり、不器用だったりする。では、具体的に演奏はどうだったか。
モーツァルトのピアノソナタK.526。モーツァルトの最後のピアノソナタであり、最も円熟したピアノソナタの一つである。この曲は例えばK.499/533のソナタなどに比べるとポリフォニックな要素が少なく、二声部の動きが基本である。そのためこの曲が(当日シフがアンコールで弾いたハ長調ソナタK.545などと同様に)教育的意図をもって書かれたと言われる。しかし、二声だから難しくない、ということはない。この曲がモーツァルトで技術的に最難関の一曲であることは全てのピアニストが知っているとおりだ。二つの旋律だけのシンプルな音形であるだけに、ただ弾くのでは足りず、十分なニュアンスが要求される。しかも白鍵と黒鍵の配列が指にうまく合わない面があって、一見単なる音階のようでも実は弾きにくいことが多い。ピアニスト泣かせの曲なのである。ここでのシフは唖然とするほど上手い。いやうますぎる。一つ一つの音がシフによってどれだけ十全のニュアンスが与えられているか。驚くばかりだ。第一楽章ではその十六分音符を、その場面によってタッチを微妙にかえつつ表現するが、それに対峙する八分音符や四分音符に隠れている旋律を巧みに聞かせるのがニクイ。第二楽章は今の良く響くピアノではもう少し遅いテンポで思い入れを込めて演奏することが多いが、シフは微妙なタッチを駆使しつつ、端正なたたずまいを持ってクラシカルな表現を貫いた。第三楽章は逆にテンポを速くしすぎず、あくまで十六分音符の三連符の一つ一つの粒立ちが聴こえる表現を守った。古典的な様式感を崩さない、という配慮が見えた。何と巧みな、と感心しながら、しかし、一方で、もっとシンプルで素晴らしい演奏を聴いたことがあるようにも感じていた・・・。
次いでハイドンの最後のソナタ。シフには洒落とユーモアにあふれるハイドンが向いていると感じる。均衡のとれた優美な音楽を奏でるモーツァルトや、全体が大きく見通された構成力を持つベートーヴェンに比べて、ハイドンにはちょっとした場面の転換の妙や、大胆な転調などの魅力が詰まってるが、それがシフの巧みな表現力とマッチする。最もハイドン的なピアニストと言えるかもしれない。
シューベルトの変ロ長調のソナタ。小細工をすべて拒否するような息の長い歌。人の声や弦楽器と異なり一種の抽象性を持った響きを持つピアノだからこそ、この音楽から超越的な表現を引き出すことができるのではないだろうか。この曲はピアニストの一つの試金石ともいえる曲で、例えばリヒテルは異常な集中力を持った演奏をしたが、その極度に遅い演奏がブレンデルの逆鱗に触れた。我々はさらに独特なアファナシエフの演奏も知っている。しかしシフはそういう類の演奏とは対照的で、独自の世界観の提示というよりはニュアンスや美しさによってこの曲に人間的な温かみを与えようとするかのようだった。ウィーンの伝統を志向しているのかもしれない。私は正直言ってこのアプローチに若干物足りなさを感ぜざるを得なかった。例えば第一楽章は中庸を感じさせる音楽から始まるが、その後は至福のひと時から絶望の淵までを含むような、いわばこの世の中を全投影したような音楽である。ディナーミクスについても、消えゆくようなピアニッシモから爆発するようなフォルテッシモまで圧倒的に幅が広い。シフはもちろんこれを百も承知で、これらを丹念に場面場面で表現していった。しかしこのやり方だと、この音楽に内包する「毒」を表現しきれないと感じる。とてつもない大きなシューベルトの音楽に見合う演奏となっているのか、ということだ。痛切な感情表現である第二楽章はもちろん、第三、四楽章も、表面的な平和とは裏腹に深遠なる闇が見え隠れししていて、それをどう表現するかがピアニストにとっての最大の課題ではないか。しかし、私にはシフの演奏からそれを感じることはできなかった。何もシフに異常な演奏をするべきだ、と言っているわけでない。このような究極の音楽を表現するにはありとあらゆる可能性があるのは当然だ。私は80年代にルドルフゼルキンがこの曲を演奏するのを聴いた。彼はシフと対照的に不器用な人で、表現を細かく調整していくというのではなく、自分はこうしか演奏できない、とった風の演奏をした。その真摯な姿は私を確かに惹きつけた。あるいは、表面的には淡々に弾いているだけのように感じるシュナーベルの昔の録音。シフはこういう方向性なのではないかとちょっと思うところもあるが、しかし何気なくさらっと表現しながら聴き手の心をひょいとつかんでしまうシュナーベルとシフには溝があるようにも感じる。
そしてプログラム最後のベートーヴェンソナタ第32番。ベートーヴェンの後期のピアノソナタはどれも異様な高みに立っているわけだが、この曲は中でも究極と呼んでしかるべき音楽である。冒頭の減七の跳躍から人生の苦悩を象徴するような第一楽章、そしてそれがハ長調に移調して、第二楽章の主題と変奏になる。特に三十二分音符の三連符になる第四変奏からは人間の世界を離脱して彼岸に到達する。ここでもシフはすべてが考え抜かれた過不足ない表現を貫いた。終わり近くで右手でトリルを奏しながら主旋律を弾くところなど、そのニュアンスの巧みさに舌を巻いた。問題はそれがこの異常な曲のあるべき表現であるのかどうか、ということだ。
シフは「巧みすぎる」ピアニストだと思う。ピアノ演奏を芸術表現の手段としてこれほどまでに高めたピアニストも他にいないように思える。どんな曲もどんな風にでも自由に表現できる。現代を代表するピアノの巨人であることは間違いない。しかし、とことん均衡のとれた美しく知的な演奏が、私たちが本当に欲するものなのか。特にシューベルトとベートーヴェンの最後のソナタという、いわばピアノ音楽の究極の二曲についてはもっと突き抜けた表現が求められるのではないか。私は満足しつつも一方でどこか割り切れぬ思いを抱きながら帰途についた。