ショパン・コンクールの審査員。有名人が並んでいます。中でハラシェヴィッチとかアントルモンとか、懐かしい名前が。まだお元気なんですね。
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新国立劇場のパルジファルの初日を聴きました。長くて難解とされるオペラですが、堪能しました。まずクプファーの演出が面白い。光の道で度肝を抜かれましたが、他にも僧侶が出てきて仏教を暗示させたり、と仕掛けがいっぱい。歌手は皆良かったが、中ではクンドリとグルネマンツが素晴らしかった。クンドリ役のヘルリツィウスは声量はそれほどではないかもしれないが、難しい役柄を的確に表現していました。飯守+東フィルは長丁場を高レベルの演奏で締めてくれました。今日のパルジファルみたいな公演が新国立劇場で観られるのならば高いカネを出して外来オペラを観に行かなくても良いかも、などと思いました。でも、今日のは相当に金がかかっていますよね、舞台も凝っているし。(ちなみに個人的にはパルジファルの話がますます謎めいてきてしまいました。特にキリスト教との関係。勉強せねば・・・。)
![]() 有森博さんの素晴らしいリサイタルを聴いてきましたので、少し日がたってしまいましたが、こちらに感想を書いておきます。(4月19日東京文化小) プロコフィエフとラフマニノフという「二人のセルゲイ」の作品を鏡のように対称的に配置したプログラムでした。最後の曲(プロコフィエフの戦争ソナタ)を除くと、普段はなかなか演奏されない曲ばかり。その選曲と配置に、奏者の並々ならぬこだわりと、聴衆におもねらない矜持を感じたのは私だけではないでしょう。音楽的には対照的に見られることの多い二人ですが、こうやってまとめて演奏を聴くことで、二十世紀前半に花開いたロシア・ピアニズムのもつ大きな流れと奥深さを感じられることとなりました。 冒頭はプロコフィエフの「思考」。プロコフィエフのピアノ独奏曲というと9曲のソナタばかりが脚光をあびる傾向にありますが、彼の数多い小品にも魅力的な曲が色々あります。中でもこの「思考(パンセ)」は、暗くてとっつきにくい面があるものの、虚飾を排した曲想の中に作曲家の心情が吐露された傑作です。次いで演奏されたのは十の小品より第五番ハ長調。あたかも風が過ぎ去るような不思議な魅力を持った作品で、十曲からなるこの作品集の中で最も印象に残る曲といえるでしょう。有森さんはこれらのプロコフィエフの小品の持つ、繊細で深い情感を余すことなく表現していました。どこから見ても立派な演奏。 そして前半のメーンはラフマニノフの「ショパンの前奏曲ハ短調の主題による変奏曲」。この曲はラフマニノフのピアノのための大きな作品の中で、おそらく(ピアノ・ソナタ第一番と並んで)最も演奏される機会が少ない曲と言って良いでしょう。その理由としては、あまりにも音符が多くて複雑、演奏が技術的に非常に困難、30分になんなんとする長さ・・・等々が考えられます。曲の後半にこれでもかという風に技巧的で壮麗な変奏曲が続いたあとフィナーレでドゥア(長調)の勝利の行進となって、最後はお決まりの華麗なカデンツァで締めくくられる、という構成。不肖私の若いころには「ショパンの『もうひとつの葬送音楽』を冒涜した」などという風に思ったりしたこともありました。しかし今は、二十代後半だった作曲者の若さがほとばしった過剰ともいえる音のドラマが、魅力だと感じるようになりました。 この曲は、例えばブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲」のように数多い変奏曲が組み合わさって大きな構築物を成しているのとは異なり、同じ原型から生まれた様々な曲想が万華鏡のように変化していくのを楽しむべき曲だと思います。有森さんは多彩で自由自在かつ生き生きとした表現により、この曲の魅力を存分に引き出していました。もちろん、そこには息をのむような技巧の冴えと様々な音色の変化があるからこそですが。 後半はまずラフマニノフ初期の作品3の小品集から、有名な前奏曲を除いたうちの三曲。聴き手にも集中力を強いる重い曲が並ぶプログラムの中にあって一息つくひと時でした。甘いロマンティックな音楽に酔いました。 プログラム最後はプロコフィエフの戦争ソナタ(ソナタ第七番)。この曲ではピアノを打楽器的に扱った両端楽章ばかりが注目される傾向にありますが、実は第二楽章が様々な表情と内容を持った物語であり、有森さんはそれを十全に味わせてくれました。もちろん、「戦争」の名にふさわしい第一、第三楽章のパワフルな表現は有森さんの自家薬籠中のもの。 しかし、この日の最大のドラマは、実はこの後のアンコールにあったのでした。拍手の後に有森さんが「コレルリの主題による変奏曲」(ラフマニノフ)の主題を弾き始めたとき「抜粋して演奏するのかな」などと想像していました。しかし、主題、第一変奏、第二変奏・・・と順番に演奏されていくうちに「どうやらこれは全曲を演奏するのだ」ということがわかり驚愕。難曲揃いのプログラムのあとに、20分近くかかる曲、それも世に知れた難曲を全て弾き通す、というのは何たることか。 しかし、これがなんともスリリングな演奏であったのです。この曲は古くから伝わる素朴なメロディー(ラ・フォリア)を主題にした変奏曲ですが、ラフマニノフ晩年の曲であるだけに、そこには一筋縄ではいかない割り切れなさがあります。和音は複雑ですし、耳に心地よい音型が並んでいるわけではない。速くて技術的に困難な箇所が散りばめられている一方、単純に演奏効果を志向するのではなく、ゆったりとした内面的な曲想の時間が圧倒的に長くなっています。間奏曲と後の穏やかなドゥアの部分で大きな場面展開があったり、最後に寂しい感じで終ったり、等々、全体として「ショパンの主題による変奏曲」とはかなり異なる雰囲気を持っています。 有森さんはゆったりした曲を繊細なタッチと歌心で滋味深く弾いていくことで、まず聴衆の心をがっちり惹きつけました。しかし、アンコール・ピースとしては、やはりF1並みのスピード感で弾ききった速い変奏曲が圧巻でした。特に第十八、十九、二十変奏がそのクライマックスでした。 コレルリ(正確にはラ・フォリア)の主題はゆったりした四分の三拍子ですが、この三つの変奏では九分の八拍子と記されています。演奏が非常に困難なため、一拍を三拍に読み替えているのです。そのためもともと三拍子のシチリアーノ(符点三連符)であったリズムが、三分割されて、三つずつのシチリアーノに変化しています。しかし、有森さんは、ちょっと類のない推進力と高揚感(と、もちろんそれを支える並外れたテクニック)によって、これらの変奏を主題と同じ「大きな三拍子」としてとらえていました。例えば第十九変奏の後半は、十六分音符の忙しい動きに気を取られがちですが、実は拍の頭のレ・ド・シ♭・ラ・ソ・ファ・・・が大きな流れを作っています。これを前面に出すことで、曲の大きな流れが見えてきます。 この演奏を聴くと否が応でも思い起こすのがアルゲリッチの演奏です。実際、目にも(耳にも?)鮮やかなテクニック、抜群のリズム感、聴き手の心をつかみとるエンタテイナーとしての資質・・・等々、両者には多くの共通点があると思います。盤石の安定感や鋼鉄のようなフィンガー・テクニックという点ではアルゲリッチが勝るかもしれませんが、有森さんの演奏には心の襞を伝えるような繊細さや色合いがあると思います。これをラテン(アルゲリッチ)に対する日本的なもの、と言ってしまってはあまりに単純かもしれませんが、でもこの気持ちは日本人の方なら理解していただけるのではないか、と期待するところです。 古代の舞曲をロシア人のラフマニノフが再構築したものを、日本人である有森さんが表現する。それによって見えてくるものが色々ある、ということだと思います。その夜は大いなる充実感をもって帰途についたこと、言うまでもありません。 成田達輝と萩原麻未の二重奏を聴きました。浜離宮朝日ホール。全体を通して若々しいエネルギッシュな表現が一貫していました。萩原のピアノはほとばしる感性で全体の音楽を主導したと思います。スタインウェイピアノを全開の状態にしていても、巧みな音色のコントロールと絶妙な弱音によりヴァイオリンを押しのけず融合する響きとなっていたのはさすがです。成田のヴァイオリンを聴くのは初めてでしたが、自在な表現で聴かせました。特に多彩な音色は魅力的ですね。今度は是非ヴァイオリン・コンチェルトを聴いてみたいです。
プログラム冒頭のスプリング・ソナタから若い感性に満ちた表現に惹きつけられました。大胆なルバートや消え入るような最弱音の多用など、奔放とも言える表現。これを「古典的な構成感や均衡に欠けている」と批判するのはたやすいが、そんなことばかり気にしてつまらなくなったベートーヴェンの演奏を我々はどれだけ聴かされてきたことか。他に、ストラヴィンスキーやグリークもそれぞれ意欲的な解釈で聴かせましたが、特筆すべきは酒井健治の新曲「カサム」(委嘱・初演)。聴き手の心に自然にすっと入ってくる曲想が素晴らしく、小品ながらこの作曲家の前途洋々たる将来を予見させるに足る作品だと思いました。そして二人の奏者がそれを十二分に咀嚼して、見事な仕上がりになっていたと思います。この曲は冒頭からアンサンブルが非常に難しそうだし、特にピアノは譜読みだけでも大変なはずですが、そういう技術的な問題を軽々と乗り越えてしまった感のある出来でした。 アメリカのオケの音楽監督の年収リストです。一流どころは軒並み億を超えているのは当然か?平均五千万円弱。
マイアミ・ビーチのショパン・コンクールの一等賞金が七万五千ドルに。2015年2月。これに優勝してワルシャワの(本家の)ショパンコンクールに出場するのが理想的かもしれませんね。
ステファン・ハフの問題提起が波紋を広げています。チャイコフスキーのピアノ協奏曲の第一番の第二楽章の主題。フルートが最初に「ラ♭ーーミ♭ーファラ♭ーーーー」と奏するところ。 このファの音は間違いではないか、というのがハフの主張です。何故なら、そのあとにピアノは「ラ♭ーーミ♭ーシ♭ラ♭ーーーー」と弾くから。そして、手稿にもそういう風に書かれていると。 確かにそこの音が直してあるのがわかります。これについてNYRBでKirill Gersteinが詳しく述べています。
彼はチャイコフスキーの研究者にも確認したりしていますが、その結論は、どちらかというとハフの説に否定的。フルートとピアノのメロディーが同じでなければならないというのはヨーロッパ的合理主義。ロシア音楽はそういう事は問題にしない、と。 うーん、私は今までこの相違について一度も変に思ったことはありませんでした。日本人も西洋的合理主義的でないから、でしょうか? シンフォニー・プチ・コンサート 2013年8 月11日 が終わりました!参加くださったみなさんどうもありがとうございました!以下のように、ピアノに加えて歌や弦楽器など盛りだくさんのプログラムで、皆さん一様に「楽しかった」と言ってくださいました。次回は十月に開催の予定です。(日程が決定しだいHPで発表いたします。)ふるってご参加ください!
プログラム 四手のためのソナタニ長調 モーツァルト Love Theme アンドレ・ギャニオン ピアノソナタ第12番 第1楽章 モーツァルト ピアノソナタ第 1番第1 楽章 クレメンティ エチュード op25-2 ショパン 水の上で歌う Op.72, D.774 シューベルト 母が教え給いしうた Op.55-4 ドボルジャーク 口づけ アルディーディ (ソプラノ) ノクターン 第20番 遺作 ショパン ラルゴ ヘンデル 他 (ソプラノ) ノクターン Op. 27-2、 プレリュード Op. 28-17 & 24 ショパン 無伴奏チェロ組曲第三番より プレリュード JS バッハ 森のしずけさ ドボルザーク (チェロとピアノ) ノヴェレッテ Op. 21 第1番 ヘ長調 シューマン ピアノ三重奏曲第1番 「悲しみの三重奏曲」 ラフマニノフ (ヴァイオリンとチェロとピアノ) 都響の戦争レクイエムを聴きにいってきました。今年はベンジャミン・ブリテンの生誕百年。ブリテンといえば、同性愛者で徴兵忌避で戦争中にアメリカに渡り・・・と若干つかみにくいキャラですが、第二次大戦の空襲で破壊されたカテドラル再建に際し、この戦争レクイエムを作曲したわけです。この曲は二十世紀のクラシック音楽の曲として最も有名な曲の一つと言って良いでしょう。「わかりやす過ぎる」と言われたり、ストラヴィンスキーが「反動的」と批判したりしていますが、そういった批判はむしろこの曲が如何に多くの人の心を動かしたかを示しているとも言えますね。ブリテンという人間にいくら批判があろうとも、最後のクライマックスですべての声と楽器が鳴り、その後にドゥアで静かに曲が終わると、誰でも深い感動を覚えることになります。作曲当時の1960年代初めは核戦争の危機が高まり、ベルリンの壁が出来・・・という時代でした。初演のバリトンにフィッシャー=ディスカウ(ベルリン出身)を、ソプラノにヴィシュネフスカヤ(ソ連)を指名したのもそのためでしょう。今回、指揮者の大野和士は日韓中のソリストを選ぶことで、平和への願いを込めたものと思われます。総勢三百人が非常に良くまとまって音楽を聴かせてくれました。テノールのオリバー・クック(韓国)は美声でリハーサルでは非常に良かったらしいが、本番では少し硬かったかも。それから、作曲者の意図としてはオーウェンの英詩の歌をはさむことで英国の聴衆に歌詞が理解されるように作られたのだと思いますが、英語の発音はアジア人にとって難しいので、聞くだけでは苦しかったです・・・。以上、なんだかまとまりませんが、幸せな気分で帰途につけました。
週末になるとシンフォニー・サロンでは色んな音楽活動が繰り広げられます。「どういうお客さんが多いですか?」などときかれることがありますが、本当に千差万別ですし、私が全てを把握しているわけでもないので、何とも答えようがありません。皆様、本当にありがとうございます!
日曜日は夕方にピアニストKさんらがピアノトリオの練習に来られました。ちょうど加藤正人さんに調律をしていただいた翌日、というベストタイミングです。KさんによるとシンフォニーのNYスタインウェイBは「低音の重みが特に優れている」とのことでした。近々ベートーヴェンの大公トリオを演奏されるとのことで、昨日は第一回目の練習。その後に三人の奏者プラス私で、ちょっとした「大公談義」が繰り広げられました。 Kさんは室内楽を良くやられますが、大公をちゃんと弾くのは意外にも今回が初めてだとのことでした。「どうもしっくりこないところがある」こう言われます。実は私も正直言って大公の良さが今一つわからない面があります。第一楽章をスケール感だけで押そうとするとあまりにも単純になってしまいそうに感じるし、最終楽章のあの軽い感じが曲の締めくくりにふさわしいのか、特にあの第三楽章に比べてどうなのか・・・等々を考えます。 その時の会話をちょっと抜粋しておきます。 「大公という名前は、単に大公に曲を捧げたために呼ばれているだけでしょ?」 「そう。もし農民に捧げたら「農民」と呼ばれるようになったかも」 「だから「大公」という言葉のもつイメージにとらわれ過ぎるのは間違いということだね。」 「今まであの曲がどうも良く理解できなかったけど、エドウィン・フィッシャーらの録音を聴いて疑問が氷解した。例えば終楽章は普通よりもっとじっくりと丁寧に演奏することで説得力が生まれる」 「確かに、多くの演奏家はあの終楽章を必要以上にリズミカルに派手目に弾いて曲を盛り上げて終わろうとしているように思う。」 幸いなことにエドウィン・フィッシャーの録音はユーチューブで公開されています。私も遅ればせながら聴いてみました。大公の録音というとピアノとヴァイオリンとチェロの三人の大家が「我こそは」とがっぷり四つに組んだ演奏スタイルがすぐに浮かびますが、この演奏は違います。力強いというよりも滋味深い。 エドウィン・フィッシャーというと反射的に「バッハの平均律」と思ってしまいますが、もう一度色々聴いてみないと。 PS そういえば、大公といえば村上春樹ですね。大公をYoutubeでチェックすると、コメント欄にMurakamiの名前がたくさん踊っています。クラシック音楽に対しての彼の貢献はすごいものがありますね。 |
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December 2018
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