マイアミ・ビーチのショパン・コンクールの一等賞金が七万五千ドルに。2015年2月。これに優勝してワルシャワの(本家の)ショパンコンクールに出場するのが理想的かもしれませんね。
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ステファン・ハフの問題提起が波紋を広げています。チャイコフスキーのピアノ協奏曲の第一番の第二楽章の主題。フルートが最初に「ラ♭ーーミ♭ーファラ♭ーーーー」と奏するところ。 このファの音は間違いではないか、というのがハフの主張です。何故なら、そのあとにピアノは「ラ♭ーーミ♭ーシ♭ラ♭ーーーー」と弾くから。そして、手稿にもそういう風に書かれていると。 確かにそこの音が直してあるのがわかります。これについてNYRBでKirill Gersteinが詳しく述べています。
彼はチャイコフスキーの研究者にも確認したりしていますが、その結論は、どちらかというとハフの説に否定的。フルートとピアノのメロディーが同じでなければならないというのはヨーロッパ的合理主義。ロシア音楽はそういう事は問題にしない、と。 うーん、私は今までこの相違について一度も変に思ったことはありませんでした。日本人も西洋的合理主義的でないから、でしょうか? シンフォニー・プチ・コンサート 2013年8 月11日 が終わりました!参加くださったみなさんどうもありがとうございました!以下のように、ピアノに加えて歌や弦楽器など盛りだくさんのプログラムで、皆さん一様に「楽しかった」と言ってくださいました。次回は十月に開催の予定です。(日程が決定しだいHPで発表いたします。)ふるってご参加ください!
プログラム 四手のためのソナタニ長調 モーツァルト Love Theme アンドレ・ギャニオン ピアノソナタ第12番 第1楽章 モーツァルト ピアノソナタ第 1番第1 楽章 クレメンティ エチュード op25-2 ショパン 水の上で歌う Op.72, D.774 シューベルト 母が教え給いしうた Op.55-4 ドボルジャーク 口づけ アルディーディ (ソプラノ) ノクターン 第20番 遺作 ショパン ラルゴ ヘンデル 他 (ソプラノ) ノクターン Op. 27-2、 プレリュード Op. 28-17 & 24 ショパン 無伴奏チェロ組曲第三番より プレリュード JS バッハ 森のしずけさ ドボルザーク (チェロとピアノ) ノヴェレッテ Op. 21 第1番 ヘ長調 シューマン ピアノ三重奏曲第1番 「悲しみの三重奏曲」 ラフマニノフ (ヴァイオリンとチェロとピアノ) 都響の戦争レクイエムを聴きにいってきました。今年はベンジャミン・ブリテンの生誕百年。ブリテンといえば、同性愛者で徴兵忌避で戦争中にアメリカに渡り・・・と若干つかみにくいキャラですが、第二次大戦の空襲で破壊されたカテドラル再建に際し、この戦争レクイエムを作曲したわけです。この曲は二十世紀のクラシック音楽の曲として最も有名な曲の一つと言って良いでしょう。「わかりやす過ぎる」と言われたり、ストラヴィンスキーが「反動的」と批判したりしていますが、そういった批判はむしろこの曲が如何に多くの人の心を動かしたかを示しているとも言えますね。ブリテンという人間にいくら批判があろうとも、最後のクライマックスですべての声と楽器が鳴り、その後にドゥアで静かに曲が終わると、誰でも深い感動を覚えることになります。作曲当時の1960年代初めは核戦争の危機が高まり、ベルリンの壁が出来・・・という時代でした。初演のバリトンにフィッシャー=ディスカウ(ベルリン出身)を、ソプラノにヴィシュネフスカヤ(ソ連)を指名したのもそのためでしょう。今回、指揮者の大野和士は日韓中のソリストを選ぶことで、平和への願いを込めたものと思われます。総勢三百人が非常に良くまとまって音楽を聴かせてくれました。テノールのオリバー・クック(韓国)は美声でリハーサルでは非常に良かったらしいが、本番では少し硬かったかも。それから、作曲者の意図としてはオーウェンの英詩の歌をはさむことで英国の聴衆に歌詞が理解されるように作られたのだと思いますが、英語の発音はアジア人にとって難しいので、聞くだけでは苦しかったです・・・。以上、なんだかまとまりませんが、幸せな気分で帰途につけました。
週末になるとシンフォニー・サロンでは色んな音楽活動が繰り広げられます。「どういうお客さんが多いですか?」などときかれることがありますが、本当に千差万別ですし、私が全てを把握しているわけでもないので、何とも答えようがありません。皆様、本当にありがとうございます!
日曜日は夕方にピアニストKさんらがピアノトリオの練習に来られました。ちょうど加藤正人さんに調律をしていただいた翌日、というベストタイミングです。KさんによるとシンフォニーのNYスタインウェイBは「低音の重みが特に優れている」とのことでした。近々ベートーヴェンの大公トリオを演奏されるとのことで、昨日は第一回目の練習。その後に三人の奏者プラス私で、ちょっとした「大公談義」が繰り広げられました。 Kさんは室内楽を良くやられますが、大公をちゃんと弾くのは意外にも今回が初めてだとのことでした。「どうもしっくりこないところがある」こう言われます。実は私も正直言って大公の良さが今一つわからない面があります。第一楽章をスケール感だけで押そうとするとあまりにも単純になってしまいそうに感じるし、最終楽章のあの軽い感じが曲の締めくくりにふさわしいのか、特にあの第三楽章に比べてどうなのか・・・等々を考えます。 その時の会話をちょっと抜粋しておきます。 「大公という名前は、単に大公に曲を捧げたために呼ばれているだけでしょ?」 「そう。もし農民に捧げたら「農民」と呼ばれるようになったかも」 「だから「大公」という言葉のもつイメージにとらわれ過ぎるのは間違いということだね。」 「今まであの曲がどうも良く理解できなかったけど、エドウィン・フィッシャーらの録音を聴いて疑問が氷解した。例えば終楽章は普通よりもっとじっくりと丁寧に演奏することで説得力が生まれる」 「確かに、多くの演奏家はあの終楽章を必要以上にリズミカルに派手目に弾いて曲を盛り上げて終わろうとしているように思う。」 幸いなことにエドウィン・フィッシャーの録音はユーチューブで公開されています。私も遅ればせながら聴いてみました。大公の録音というとピアノとヴァイオリンとチェロの三人の大家が「我こそは」とがっぷり四つに組んだ演奏スタイルがすぐに浮かびますが、この演奏は違います。力強いというよりも滋味深い。 エドウィン・フィッシャーというと反射的に「バッハの平均律」と思ってしまいますが、もう一度色々聴いてみないと。 PS そういえば、大公といえば村上春樹ですね。大公をYoutubeでチェックすると、コメント欄にMurakamiの名前がたくさん踊っています。クラシック音楽に対しての彼の貢献はすごいものがありますね。 有森博さんのラフマニノフ前奏曲24曲の演奏会に行ってきました(東京文化会館小)。24曲を一気に、というのは凡庸な演奏では飽きてしまう恐れがあるところですが、有森さんの演奏は、音楽が今生まれてくるような新鮮な感性を感じさせるもので、一曲一曲のマイクロな世界が結びついて大きな世界が創出されるさまを心行くまで味わいました。
そこで今日はラフマニノフの前奏曲集についてちょっと書いてみようと思います。 世の中には数多くの「前奏曲集」がありますが、その本家本元ともいえるショパンの前奏曲集は調性等の条件から、まとめて演奏するのが本来の姿だと広く認識されています。一方で、ドビュッシーの前奏曲集についてはショパンほどの「一体感」は感じられません。各曲に独立性が高く、タイトルも与えられているくらいですから。でも一方で、それぞれの曲がピアノの独自の技法や楽想を追求しているので、それをまとめて演奏することで、ドビュッシーの音楽観が顕わになるという面もある。なのでこの場合は個別に弾くことも、第一巻・第二巻とそれぞれまとめて演奏することも、どちらも多いです。 では、ラフマニノフの前奏曲集はどうでしょう?これについては全曲を通すことはあまりありません。(CDではまとめて録音されることが多いですが)。全体をまとめて演奏することで何か大きなメッセージを発信しているとは考え難いから、という理由がそこにはあると思われます。どうせラフマニノフばかりではないかと。 しかし、昨日、有森さんの演奏で全曲を通して聴いて、私は24曲を通して聴く深い充実感を味わうことができました。Op.3-2「鐘」の冒頭A-G♯-C♯が全体の導入の役割を担っていて、そのあとはラフマニノフの独自のロマンの世界がいろんな姿に変貌していく姿を堪能できました。考えてみると、前奏曲集の中の何曲かは非常に短かったり曲想の個性をとらえにくかったりして単独に取り上げるには若干都合の悪いのがありますので(特に作品32の何曲か)抜粋だと、Op.23-5のようなホロヴィッツがお得意の華麗な曲ばかりが弾かれる傾向が出てしまいます。それは本当にもったいない。 もう一点感じたことを挙げると、作品32の難解さです。ラフマニノフのピアノ曲というと、ピアノ弾きにとっては、まずは前奏曲があって、その先には「音の絵」そしてさらにピアノソナタ第二番があると考えるのが一般的でしょう。これは作曲された順番にも符合する見方です。しかし実は前奏曲Op.32が最も「難しい」のではないか。これが私の以前からの意見です。この考えは有森さんの演奏を聴いてさらに強くなりました。まだ考えが100%まとまってはいないのですが、Op.32の中にも5番や2番のように比較的曲想をつかみやすい曲もあるものの、多くは作曲者の意図がわかりにくい曲です。中では第1番ハ長調や第6番ヘ短調などは疾風怒濤という感じで、まだわかりやすい面がありますが、第3番ホ長調とか第4番ホ短調のあの入り組んだ感じはは何なのでしょう?どちらもクライマックスがあるものの、それも空虚な感じでさっと終わり、最後は消え入るように曲が閉じる。単に印象を断片的に綴ったのでもなく、かといって何か全体としての構成や方向性が確立しているというわけでもなさそう。それに比べると、そのあとに作曲された「音の絵」のわかりやすさと言ったら・・・。 ともあれ、こんな風に思ったのも、ラフマニノフの前奏曲集を全曲通して演奏する意義を強く感じさせてくれたからです。では、この辺で。 ![]() 来日中のA氏から色々と話を聞く機会がありました。国際的な賞を受賞している建築家・デザイナーです。彼にミュージアムの設計についてパワーポイントで説明を受けました。「ミュージアムは作品を保管する倉庫であってはいけない。ミュージアムを閉じたものにせず、作品たちを広く社会にはばたかせるにはどうすればよいか・・・」
単純化するのは危険ですが「コンセプトから入る」というのはヨーロッパ人に良く見られるやり方だと思います。「自分はこういう思想をもっている。だからこういう形が必要だ・・・」という流れです。これは音楽にも美術にも・・・およそあらゆる芸術作品全般に言えることだと思います。いやむしろ、思想を作品に化体させることこそが、近代以降に西洋の芸術が圧倒的な存在感を示してきた原点だと言うべきでしょう。アルチザンからアーティストへ。 日本にはそういう伝統はほぼなかったと思います。オリジナルな思想というものよりは、例えば「自然こそが理想である」とか「芸を極めていけば自ずから何かが生まれる」といった発想になったのです。 たとえば小津安二郎の映画。これが世界的に非常に高い評価を得ているのは、彼独自の芸術性があるからですが、彼自身はそれを意識的にやっていたとは思えない。「世界の映画史の中で自分は何者か」などと彼が考えていたはずもありません。自分の個性と日本の伝統が絡み合ったものが、それまで世界のどこにもなかったような独自の作品に結実し、それが世界の人々の心に訴えたのです。 もちろん、意識的であるかどうかが、その作品の価値を規定するわけはありません。意識的か無意識かにかかわらず、小津の映画に普遍的な価値があることに変わりはありません。 ただ、新しいタイプの芸術作品が生まれてくるようになるには、そこに新たなコンセプトが必要であろうとは思います。二十世紀初頭の音楽界では、ロシアからストラヴィンスキーが、ハンガリーからはバルトークが新風をふきかけました。ではクラシック音楽の本家本元のオーストリア出身のシェーンベルクはどうしたかというと、十二音音楽を確立したのです。彼が伝統の中心から新しい道を作り上げるには抽象的な手法しかなかった、と言えるかもしれません。彼が歴史的なイノヴェーターであることは疑いようがありません。 ・・・こう書いてきたら、チャールズ・ローゼンの「シェーンベルク」に書いてあった話を思い出しました。細かいところはうろ覚えですが、こういう話です。シェーンベルクは一時バルセロナに住んでいた。すると友人の音楽家(ウェーベルンだったか?)から、バルセロナでシェーンベルクの作品を演奏したいという話があった。するとシェーンベルクはこう答えた。「いいかい。僕はバルセロナに友達も大勢できて、一緒にテニスをやったりしていて良い関係が築かれているんだ。それなのに、もし僕のことを「訳のわからない前衛音楽の作曲家」だと知れたら人間関係が破壊されるじゃないか。だから頼むから演奏はやめてくれ」 芸を磨くとか職人芸、といったものでなく、自分の思想を芸術に反映させようとした人たち。彼らの苦労には常人には計り知れないものがあるということでしょう。 コンラッド・タオといえば十代では世界で最も才能のあるピアニスト・・・かどうかはわからないが、もっとも有名な存在ではあるでしょう。ヴァイオリンも上手で、ある晩のコンサートで、まずメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲でソロを演奏したあと、次にピアノ協奏曲を弾く、などといった離れ業も披露しています。でも最も力を入れていそうなのが作曲で、十代前半のころからオーケストラ曲や弦楽四重奏曲を含め数多くの曲を発表しています。今は米国のダラス交響楽団からJFケネディ暗殺五十年についての曲の委嘱を受けているようです。・・・そんな彼の演奏がネットで聴けるのをたまたま見つけ、ちょっと聴いてみました。曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番で、指揮はズーカーマン。うちのラップトップPCの音では細かいところまでは判断しずらいが、第二楽章の深い表現などうならせます。これを録音した2012年秋に彼は十七歳でしたが、当時彼はアムステルダム・コンセルトヘボーやパシフィック交響楽団などとラフマニノフ三番、グリーグ、ガーシュイン第二ラプソディなどの協奏曲を弾きつつ、NYエヴァリーフィッシャーホールやモントリオールやメキシコなどでリサイタルを開き、香港交響楽団で自作の世界初演があり(本人は忙しすぎて出られず)、といった日々をすごしつつ大学の試験をうけたりしていたそうです。http://www.artsalive.ca/collections/nacmusicbox/en/?_escaped_fragment_=%252index.php%3Fpageid%3Dhome#!/index.php?pageid=home
昨日はピティナの受賞者コンサートに行ってきました。ピティナとはピアノの先生の団体で、子供中心の年代別コンクールを主催しています。その金賞銀賞を受賞した俊英たちを中心としたコンサートが第一生命ホールで開催されました。出場者にはシンフォニー・サロンのお客さんも多く、私は出場した小学生のAちゃんの親御さんからお誘いいただいた次第です。
日本の子供たちのレベルは本当に高く、足台がないとペダルにとどかないような小さい子供がショパンなどの難曲をやすやすと弾いてしまいます。教育熱心で時間とカネを惜しまない親、我慢強く努力を重ねる子供、年代別コンクールで同世代を競わせるシステム・・・こういう条件がそろった、ということでしょう。ピアノは普通の学校の教科と違って変な平等主義がありません。個人の能力と習熟度によってどんどん先に進める、というのは本当に素晴らしいことだと実感します。 あとは、こういう能力をつけた子供たちを如何に本当の音楽家に育てるか、というのが次の課題でしょう。日本は初等教育・中等教育のレベルは高いのですが、その先の高等教育はどうでしょうか・・・。「二十歳過ぎたらタダの人」などという話にならないようにしないといけませんね。 芸術系で文章が上手い代表選手といえば、建築家、作曲家、彫刻家あたりでしょうか。彼らの創作活動での脳の使い方と、文章を書く時の脳の使い方には共通点があるのかもしれません(何の根拠もありませんが)。一方、文章を書くことがイメージしにくいのが演奏家。演奏家はその感性の魅力でアピールしているのであって知性は必要ないから・・・などということは決してないと思いますが、それでもオペラ歌手はもちろんホロヴィッツやハイフェッツのような人がいそいそと演奏解釈についての文章などを書いている姿、などというのはちょっと想像できません。そんな中で、他を圧倒していたのがチャールズ・ローゼン。彼について「ピアノと小脳のフュージョン」などと書いている記事がありました。http://standpointmag.co.uk/node/4883/full このなかで、彼の後継者は、という部分があります。その「候補」の一人とも目されるバレンボイム。彼がNYRBでベートーヴェンについてのエッセーを発表したので、ここに紹介します。内容はベートーヴェンの本質に迫るもので、彼の演奏から常に感じられる「普遍性へのあこがれ」と通底する気がします。そして、それ以上に感心したのがその文体。素直で肩ひじ張った所が一切なく、生き生きとしたリズムをもった文章は「さすが音楽家」と思わせます。彼の文章をもっともっと読みたい、と思うところですが、指揮者・ピアニストとして超多忙な人ですからね・・・。とりあえずは演奏に集中してもらうのが、世界の音楽ファンのためということなんでしょう。Beethoven and the Quality of Courage by Daniel Barenboim
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Authorシンフォニーのオーナーです。 Archives
September 2022
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